#フェス映えの裏側:そこに“音楽”はあったのか?

【はじめに】

SNSにあふれる「フェス映え」写真たち。

その華やかさの裏側に、本当に“音楽”はあったのだろうか?フェスは見せるものではなく、感じるもの。

映え」のために来たのか、「音楽」に会いに来たのか――その境界が、今問われている。

【目次】

  1. 「#フェス映え」の光と影
  2. SNS時代の“参加動機”の変化
  3. 実体験:撮ることに必死で、聴くことを忘れた日
  4. 音楽が“背景”になる瞬間
  5. じゃあ「映え」は悪なのか?
  6. “映え”と“没入”のバランスを取るために
  7. フェスの本質とは何か

1. 「#フェス映え」の光と影

カラフルな参戦服、青空の下の乾杯、夕暮れのステージと人波。

#フェス映え」で検索すれば、絵画のようなシーンが次々と流れてくる。

これらは確かに、フェスの魅力の一部ではある。

でも同時に、それが“主役”になったとき、音楽という「本来の目的」がぼやけてしまうこともある。

2. SNS時代の“参加動機”の変化

最近、こんな会話をよく耳にする。

「どこのフェスが一番写真映えする?」

「この服、映えるかな?」

「ステージは見えないけど写真は撮れた!」

もちろん、楽しみ方は自由。

でも、かつては「音楽に触れたい」「アーティストに会いたい」という動機が主だったものが、“映える体験”を記録することが主目的になるケースも増えてきている。

3. 実体験:撮ることに必死で、聴くことを忘れた日

私自身、失敗した経験がある。

推しのバンドが初めて大きなフェスに出演すると知り、気合いを入れて準備。完璧なコーデ、スマホのバッテリー2本持ち。

でも――肝心のライブ中、ずっとスマホを構えていた。

結果、曲の記憶は曖昧で、「あの時感じた音の熱」が残っていない。

「何しに行ったんだろう」と、帰りの電車で自問した。

4. 音楽が“背景”になる瞬間

フェスは、本来“耳”“身体”で味わう場。

ところが、“映え”を求めてスマホ越しに世界を見始めると、音楽はBGMになってしまう。

音楽は背景じゃない。主役だ。

アーティストは、目の前で命を削るように歌っている。

そのエネルギーに、目と耳と心を向けてこそ、フェスの価値がある。

5. じゃあ「映え」は悪なのか?

決してそうではない。

“映え”がフェスの魅力を伝え、多くの人を巻き込んでいるのは確か。

SNSで広がる写真や動画が、「行ってみたい」と思わせるきっかけになることもある。

問題は、“映え”が目的になりすぎて、本質を見失うこと。

6. “映え”と“没入”のバランスを取るために

映える写真も撮りたい。でも音楽も全力で感じたい。

そのためには、意識的に“撮る時間”“感じる時間”を分けること。

たとえば、

  • 1曲目はスマホを出さない
  • ハイライトだけ撮って、あとはポケットへ
  • 視界越しではなく、裸眼でステージを見る

ここにいた証」は、写真だけじゃない。身体が記憶してくれる体験こそ、本当の記録なのだ。

7. フェスの本質とは何か

フェスは音楽と、風と、隣の人との一体感。

写真に写らない「音」や「熱」こそが、後からふと蘇ってくる。

「映え」もいい。でも、「心に残る体験」も、もっといい。

#フェス映え の裏に、“音楽”がちゃんとあるかどうか――それが、私たちの問いである。

【まとめ】

フェスにおける“映え”は、楽しみ方のひとつであり、魅力を広げるツールでもある。

だが、その裏側にある“音楽”を感じる時間を失ってしまっては、本末転倒だ。

音を“聴く”こと、空気を“吸う”こと、人と“共鳴する”こと――

それがフェスの本質であり、私たちが本当に求めている体験なのだ。

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